目が覚めたとき、幹は自分がどこに寝ているのかまったくわからなかった。起きあがって周囲を見回し、整然と整えられたベッドが十数、部屋の向こうの壁まできちんと並んでいるのを見て、初めて、
「寮だ!」
 叫んだのだった。大慌てで服を着て、靴は片方履いただけ、もう片方は手に持って寝室を飛びだした。あまりに急いでいたので階段手前の花置きのテーブルにぶつかり、花と花瓶が落ちて水は廊下中に飛び散った。花瓶は重力に従って階段を転がり落ちていき、踊り場の壁に当たって跳ね返りさらに下の階段をごとんごとんと下っていく。
「わあ、待って!」
 花を抱え、水に足をとられ、幹は階段を文字通り転がるように駆け下りていった。花瓶をつかまえると花を逆さに押し込んで階段の隅に押しやり、びしょぬれの靴下を脱いで放り投げ、裸足に靴を履いて寮の出口に突進した。
 時刻を告げる鐘の音が厳かに鳴り響き、幹は焦った。今の鐘はなんの鐘だろう? 庭に学生の姿はない。そして幹にはこの古風な建築物のいったいどれが寮で、どれが学舎なのか、自分は今、どこへ行くべきなのか、まったくわからないのだった。
 混乱した幹は蒸気機関車。というのは母の口癖である。幹は全速力で走り続け、もっとも近い建物の扉にブチ当たった。扉は開かなかった。
 ここじゃない。次だ。幹は建物の右翼へ靴音を響かせて走っていき、花壇を飛び越え、柵をくぐり、噴水のある庭へと踊りでた。ここにも人影はまったくない。百人か二百人かわからないが、学生が、この敷地の中にいるはずだが、恐ろしいほど静かである。
 中世っぽい敷石が敷き詰められた噴水の広場の向こうにトンネルの形の通路が見えた。蒸気機関車幹号はそのトンネル目指して暴走し、次の中庭へ飛び込んで芝生の真ん中にあった彫像によじ登った。高いところへ上がれば何かを見つけられるはずだと考えたのである。
「すみませーん、誰か!」
 最初は日本語で叫んだ。急いで英語で叫び直した瞬間。
 彫像のある芝生に面した窓という窓が一斉に音高く開いた。数え切れない顔が、怪訝そうに、あるいは驚きの表情で、笑っていたり呆れていたり、全部が幹を見つめている。やがて幹にもっとも近い二階の窓が、やや慎重に開いて頭髪のこころもとない男が顔を出した。
「おはよう」
 と、彼は言った。幹も極力礼儀正しく朝の挨拶を返した。男はべつに怒ってはいない様子だ。さりげなく眼鏡を直し、
「君のクラスは演劇の授業中なのかね?」
 静かに尋ねた。途端に周囲からどっと笑い声があがった。
「演劇? 演劇の授業もあるのですか」
 幹はバカ正直に答えた。
「さあ? 私には教えて記憶はないがね。ところで君、君の足の下で羊飼いが悲鳴をあげているのではないかと思う。できればそこから三十センチほど、横に移動してやってくれないか」
 言われて幹は足下を見下ろした。幹が立っていたのは大理石の彫刻の上である。幹の身長よりやや大きな羊飼いが横たわっていた。体側を台座につけて左肘で上半身を支え、左の足は伸ばし、右の足はかるく膝をたてている。羊飼いはどこかしら悲しげな瞳を幹に向けていた。幹は羊飼いの足と腕につかまり、彼の局部の真上に立っていたのだ。
「あっ、ごめんなさい」
 幹が右足を持ち上げると大理石の逸物の上に土色の足形が残った。中庭を見下ろしている全部の生徒が爆笑し、窓枠を叩き、ところどころから、
「諸君、静粛に」
 子どもをたしなめる教師の声もどこか笑いを含んでいる。幹はようやく今自分が何をしているのか、どういう状況にあるのかを悟ったのだった。こわごわと彫刻から降りたものの、これkら自分がどうすればいいのかは相変わらずわからない。
 学舎のドアが勢いよく開いて、昨日幹のお尻をスリッパでいやというほどひっぱたいた上級生が走ってきた。
 まただ! また尻叩きだ。幹は震え上がり、脱兎のごとく逃げだした。上級生は必死の形相で下級生を追いかけ、
「待て! 止まれ、止まるんだ、羽田!」
 中庭中に響きわたるような声で怒鳴る。神妙に捕まってお仕置きを受けたほうが賢明だなんてことが、幹にわかるはずがない。学舎の円柱を回って上級生の手をすんでのところですり抜け、花壇を飛び超えてまた芝生に走り込んだ。上級生は焦るあまり花壇の縁石につまずき、花盛りの草花に頭から突っ込んで足だけが見物人の視界に残った。
 セントリース始まって以来の、正真正銘の珍事であった。学校長までが窓辺に立ち、声こそたてなかったものの、この楽しい追いかけっこを見物して楽しんだのである。
 頭上に草花を乗せた上級生は花壇から起きあがり、
「芝生に入るな、禁止だぞ、このバカ!」
 余裕のかけらすらない声で怒鳴る。羊飼いの彫刻の台座に背中をつけ、逃げ場を失った幹が恐怖の表情で固まったとき、
「中庭で怒鳴るな。それも禁止だ」
 しごく冷静な、だがよく通る声が聞こえてきた。声は幹の背後、彫刻の後ろから聞こえてきたのだ。やがて静かで正確な足音が、芝生を踏んで近づいてきた。
「タウンゼント、君は授業中でなかったか。ここは俺が引き受けよう」
 幹の真横に立って追跡者を押しとどめたのはグレイ・ラブストックである。
「俺のことなら心配無用だ。ラテン語免除で、図書室にいたのでな。君が助けを求めていたようだったので、駆けつけてきた。さて言っておくが、タウンゼント、中庭で怒鳴る、中庭を走る、花壇で寝る、頭に花を飾る、どれも禁止事項だ。目撃者も多いし、早めに退散したほうが賢明だと俺は思う」
 幹を追いかけ回した上級生、ピーターズの筆頭プリーフェクト、ジョン・タウンゼントは悔しそうに立ち止まり、幹を睨みつけながら服の汚れを払った。
「羽田。昼食のあとでもう一度ここへ来るように。わかったか」
 傲然と言い放って背を向けた。その頭頂部にネモフィラの青い花が、一輪、ふわんふわんと揺れている。怖くておかしくて、思わず笑ってしまった幹だった。タウンゼントは振り返り、
「何か楽しいことでも?」
 すかさずグレイが幹の口に蓋をした。小さな子どもの顔がすっぽり隠れる大きさの手だ。タウンゼントはもう一度幹とグレイを睨みつけ、憤然とした歩調で歩き去った。
 グレイは真正面を向いたまま、幹に手を差しだした。反射的に手をつないだ幹に、
「いいか。中庭の芝生はプリーフェクト及び学校長が認めた者しか歩いてはいけない。中庭の通路は戦争中でも走ってはいけない。ネッシーといえど中庭で大声を出してはならない。が、彫刻の逸物を踏んでいけないという規則はないから安心しろ」
 その言い方がクソ真面目で妙におかしい。
「ごめんなさい」
 幹が謝るとグレイは咳払いし、
「歩いてはいけないと明記されているが、入ってはいけないという記述はない。さ、来い。幹が歩かないですむよいう、抱いて芝生から出してやる」
 グレイは身を屈め、幹は彼の首に両腕を回した。いとも軽々と幹を抱き上げ、グレイは立ち上がって芝生を歩き始めた。いくつかの窓から喝采があがった。教師は生徒達に窓を閉めて授業に集中せよと命じ、中庭は五分前と同じ静寂を取り戻した。
「今日、どの教室へ行くか、どの先生に挨拶して何をすべきか、誰かから教えてもらっているか」
 グレイは芝生を降りても幹を離さず、特に優しくもない声で訊いてきた。グレイの肩にしがみついたまま、幹は首を振った。
「寝坊と騒動と芝生侵入はタウンゼントの指導が不味かったからだと、俺が先生に説明してやろう。昼休み、ここへ来いとタウンゼントは言ったが、幹は昼休みに教師の指導を受けていればいい。俺が手配する」
「先生も僕のお尻を叩く?」
「叩かない。最下級生の指導は上級生と家族の仕事だ。たいていの生徒は入学時までにある程度の知識を得ている。祖父、親、兄、叔父、係累こぞって同じ学校だから予備知識は得やすい」
 まったく何も知らないで入学してきてしまった自分はこの先どうなるのだろうと、幹は不安になった。
「心配するな。幹は華々しく禁を侵したがおそらく明日には一目置かれる生徒になっているだろう。恐れることは何もない」
「本当に?」
「本当だ。グレイ・ラブストックが嘘を言うと思うか」
「ごめんなさい」
 謝らなくていいんだ、と年長者は余裕の返事だ。
「グレイは嘘は言わないけど冗談は言うね」
「そうだ。だが誰も冗談だと思わない。昼休み、俺はタウンゼントに、羽田幹は自分のものだ、余計な手出しはするなと言い渡す。放課後になればお前には遊び友達ができるだろう。午後、俺が彫像の逸物の汚れを掃除しに行く。皆それを見る。明日の朝にはお前と一緒に教室まで行きたいと申し出る生徒が現れるはずだ。三日もすればタウンゼントはお前の指導から完全に手を引くだろう。尻叩きは二度とさせない」
「グレイ?」
「なんだ?」
「大好き」
 顔は見えなかったが、グレイは笑ったようだった。