今回、2006年11月の『エス 残光』発売記念・英田サキ先生サイン会の際、サイン会場限定で読者さまに配付いたしました記念小冊子『Lingering scent  〜罪な残り香〜』のショートストーリーを、当ホームページに掲載いたします。 サイン会にお越しいただきました読者さまには誠に申し訳なく存じますが、何卒ご理解いただけますようお願い申し上げます。

SHY NOVELS編集部


Lingering scent  〜罪な残り香〜


「本当に殺風景な部屋だな」
 何度も同じことを言うなと思いつつ、椎葉は立ったまま無言で腕を組んだ。宗近はまるでこの部屋の主のように、くつろいだ様子でベッドの上に座り、椎葉が淹れたコーヒーを飲んでいる。
「絵の一枚でもあれば、少しは雰囲気も和らぐだろうに。俺がプレゼントしてやろうか?」
「遠慮する。ここには寝に帰ってくるだけだから、別に殺風景でもいいんだよ」
 壁に背中を預けながら憮然と言い返す。自分のほうが訪問客のようだが、迂闊に近づけばベッドの中に引きずり込まれる可能性があるので、これくらい距離を空けておいたほうが無難だ。
「……それより、いきなりやってきてどういうつもりなんだ」
 仕事から帰宅したら、どこかで盗み見ていたんじゃないのかと疑いたくなるタイミングで、宗近が玄関に現れた。珍しく鹿目を連れておらず、入っていいとも言っていないのに、勝手に部屋に上がり込んでしまったのだ。
「誰かさんに放ったらかしにされて、飢え死にしそうだったもんでね。お前、飼い主失格だぞ」
 ニヤリと不敵に微笑む宗近は、腹を空かせた可愛い飼い犬というより、獲物を前にして舌なめずりしている野生の狼に見える。目がすでに戦闘モードならぬハイパースケベモードだ。
 やっぱり目的はそれか、と内心で溜め息をつく。
「お前は待てもできない馬鹿な犬か」
 椎葉は威嚇するように目を細めた。
「馬鹿で結構。それより、早くお前を食わせろ」
 宗近がゆっくり立ち上がり近づいてきた。自分の部屋の中で逃げるのも癪に障る。椎葉は壁に両手をついて覆い被さってくる宗近を、不服そうに見上げた。
「なんだ、その顔は。文句でもあるのか?」
「大ありだ。この部屋では絶対にやらないぞ」
 きっぱり言い切ると、宗近はフンと鼻を鳴らし、椎葉の前髪を乱暴な手つきでかき上げた。
「安普請のマンションじゃ壁が薄くて、隣にお前の恥ずかしい声が聞こえちまうからか?」
「……っ」
 思いもしないことを言われ、椎葉はカッとなった。
「図星か。だったら抱いてる間中、俺がずっと口を押さえていてやる」
 ニヤニヤしながらからかってくる宗近の肩を、力任せに「どけっ」と突き飛ばした時、玄関のチャイムが鳴った。
「こんな時間に誰だ? まさかお前の女とかじゃないだろうな。三角関係の修羅場は御免だぞ」
「俺に女はいないし、仮にいたとしても、お前を交えて修羅場になんかならないよっ」
 くだらないことを言うなと苛々しながら、椎葉はインターホンの受話器を掴んだ。
「はい」
『昌紀? 私だ。突然、すまないね。少しいいかな』
 椎葉の血の気が一気に引いた。
「……やばい」
 受話器を戻して椎葉は呟いた。宗近が怪訝な顔で、「まさか本当に女が来たのか?」と聞いてくる。
「女よりやばい……。義兄さんだ……」
「キャリアの兄貴か? なんでこんな時間に来るんだ」
「俺に聞くな。……どうしよう、やばいよ。よりによって、お前がいる時に……」
 椎葉は軽いパニックに陥りながら宗近を振り返った。現役刑事の部屋で、キャリア官僚とヤクザの幹部が鉢合わせになる事態など、恐ろしすぎて想像できない。篠塚に「こいつが俺の自慢のエスです」と呑気に宗近を紹介できるはずがなかった。
 椎葉は咄嗟に玄関に走り、宗近の革靴を掴んだ。
「お前はここに隠れてろ」
 宗近に靴を押しつけ、クローゼットの扉を勢いよく開ける。
「……おもしろい冗談だな」
「冗談なもんかっ。さっさとしろ!」
 問答無用で宗近を中に押し込み、椎葉はクローゼットの扉を閉めた。
「絶対に出てくるなよ。もし出てきたら一生メシ抜きだっ」
 言い捨てて、椎葉はまた玄関に走った。深呼吸をしてから、何食わぬ顔でドアを開ける。
「すみません。着替えていたので、お待たせして」
「やあ。遅くに悪いね。少しお邪魔しても構わないかな?」
「ど、どうぞ」
 引きつった笑顔で篠塚を室内へと招き入れる。篠塚はテーブルの前に腰を下ろすと、「おや」と呟いた。
「誰か来ていたのか?」
 テーブルの上には、宗近が飲んでいたコーヒーカップが置かれたままだ。ソーサーまで一緒なので、自分が飲んだという言い訳は苦しい。椎葉は咄嗟に「そうなんですよ」と答えた。
「友人が来ていて。さっき帰りました」
 篠塚は疑う様子もなく頷き、持参してきた紙袋から小さな包みを取り出した。
「それは?」
「福井の羽二重餅だ。出張で向こうに行っていたんだが、駅の売店でこれを見かけて、昔、由佳里と君がよく食べていたのを思いだした。懐かしくなって、つい買ってきてしまったよ」
 羽二重餅は由佳里の好物だった。しょっちゅう由佳里につき合って食べていたせいか、甘いものが苦手な椎葉でも、これは平気だった。
「わざわざすみません」
 篠塚の気づかいを嬉しく思いながらも、クローゼットに押し込んだ宗近のことが気になって、そわそわしてしまう。
「お茶でも淹れますね。ちょっと待って──」
 腰を浮かしかけた時、クローゼットの中でゴトンと物音がした。椎葉はギョッとして凍りついた。
「何か音がしたね」
 篠塚の目がクローゼットに向けられる。
「あ、いや、あのっ。さ、さっき散らかっていて、慌てて服を押し込んだから、それで何か落ちたんだと思います……っ」
「そうかい」
 にこやかな表情で篠塚は頷いた。いつもと変わらない優しげな笑みなのに、目が合った時、なぜか椎葉の背筋に悪寒が走った。
「お茶はいいよ。私はもう帰るから」
「で、でも」
「気にしないでいい。私が帰ったら、君はクローゼットの中のものを片づけるといい」
 篠塚は立ち上がると、おもむろに匂いを嗅ぐように鼻で息を吸った。
「──ゲランのランスタン?」
 鋭い指摘に椎葉は息を呑んだ。宗近が使用している香水は、確かにゲランのランスタンだ。
「君は香水はつけないはずだが。……来ていた友人の残り香かな?」
「……だ、だと思います」
 今にも死にそうな気分で椎葉は小さく頷いた。
「でも香水の名前なんて、よくご存じですね」
「以前、誕生日の贈り物で、ランスタンのアフターシェーブローションをもらったことがあるんだ。あまり好きな香りじゃないから、まったく使ってないが。……しかし残り香が漂うほど香水をたっぷりつける男というのは、品がなくて好きじゃないな」
 篠塚はなぜかクローゼットに目を向けながら、笑顔で言葉を続けた。まるでそこに誰かがいることに、はっきりと気づいているように。
「おっと失敬。君の友人を悪く言うつもりはないんだ。すまなかったね」
「い、いえ……」
 空気が冷たい。篠塚からマイナス百度の冷気が漂ってくる。
「じゃあ、失礼するよ。見送りは結構。また食事でもしよう」
 固まっている椎葉を置き去りにして、篠塚は帰っていった。
 またクローゼットの中で物音がした。今度は怒りを伝えるような大きな音だ。さっきの篠塚の棘のある言葉が、宗近に聞こえたのは間違いない。
 クローゼットに押し込まれた挙げ句、篠塚にも貶され、宗近は怒り心頭のはずだ。
 嫌だ。宗近と顔を合わせたくない。機嫌がいい時でもただでさえ扱いにくい男なのに、怒り狂った状態では椎葉の手に負えない。
 いっそのこと、釘を打って閉じ込めてしまおうか……。
 本気でそう考えながらクローゼットを見ていると、扉がギーッと少しだけ開いた。隙間から覗く、怒りをたたえた宗近の怖い目。
「……品がないだと?」
 地獄の底から聞こえるような、低い声だった。
「お、俺が言ったんじゃない……っ」
 青ざめつつ、椎葉は後ずさりした。全部お前の香水が悪いんだろ、と思いながらも、口にできない。
 椎葉の心境は、今まさにモンスターに襲われようしている、ホラー映画のヒロインそのものだった。

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