湯上がりの身体は、とにかく衣服を嫌う。
Tシャツを引っ被るにもジーンズに足を通すにも、いちいちつっかかってくる。
急いでいるときに限ってこうだ。わずらわしげに眉根を寄せて俯き、携帯電話と財布だけ尻ポケットに捻じ込むと、凌我(りょうが)は茜色に染まる板張りの廊下を大股で突き進んだ。
貴重な休日をあらかた睡眠に費やし、夕方になってようやく活動を開始する。そんな自分を除いて、家には誰もいない。父親は休日出勤で、それもここのところ頻繁に家を出ていくところを見ると真偽のほどは定かでないが、母親が他界して十余年、母親代わりを務めている姉も、週末は息抜きとばかりに彼氏とのデートに専念している。
玄関の上がり口にどかりと腰を下ろす。靴箱の中から選び出すのは真っ赤なダンクハイだ。ベロを引き出し裏側にジーンズの裾をたわませ、武装も完了、昂然と立ち上がる。
扉を押し開くと、外に立っていたらしい人物がおっと、と低く呻いて優雅な身のこなしで後ずさった。
「こんばんは、リョウくん」
夕日を浴びる玄関ホール。そこには爽やかな笑顔を浮かべてこちらを見下ろす、二十代半ばの男の姿がある。
「……三橋(みはし)さん」
凌我はじっと相手を見据えて、口元だけの微笑みを返した。
普段のスーツ姿がいかに格好いいか、容易く想像できる姿勢のよさだ。服装にも髪型にも嫌みがない。万人受けのする容貌、穏当な人柄、癖のない雰囲気。それが姉の恋人だった。
「どこか出かけるの?」
「あー、うん。そう。一応ね」
落ち着いた物腰で尋ねられ、曖昧に返事をする。向こうはちゃんと目を見て話しかけてくるのに、凌我は同じようにしない。視線がぶつかっても、意図的に外す。敵意を剥き出しにしながら、表面上は和やかに接する。
「そうか。残念だなあ。たまには皆で一緒にメシでも食いに行こうと思ったのに」
本当に残念そうな口ぶりで、視線を逸らし、腕組みをする。三橋はきっと人懐こく甘えてくるような可愛い弟が欲しいのだろう。口調や態度、誘いから、そういう思いをいつもひしひしと感じる。
「ごめんね」
柔和に笑って、その期待を裏切り続ける。好意的な眼差しで見つめたことなど一度もない。だから三橋は、自分が嫌われていることに気づいているはずだ。それでもこうして構ってくるので、癪(しゃく)に障(さわ)ることこのうえない。
「ねーちゃんは一緒じゃねーの?」
苛立った口調で尋ねると、落ち着いた低い声で返された。
「仁菜(にな)ならまだ車にいるよ。友達と電話してる」
「ふーん……」
帰ってきたのなら、これから出かける旨を伝えておかねばならない。でないと心配症の姉は、頻繁に生存確認のための電話を寄こす。けれど敵対する三橋に個人的な伝言など意地でも頼みたくなかった。
明らかに不自然な距離を空けて、気欝(きうつ)な表情で姉を待つ。そんな凌我を横からまじまじと眺めて、三橋が呟いた。
「リョウくんて、仁菜より……だね」
「え?」
他に意識がいっていたために言葉が聞き取れなかった。怪訝な顔で、凌我が見返す。三橋はにっこりとした。
「仁菜と同じぐらい、可愛い目元だね」
出会って間があるのに、今さら面と向かって容姿を褒めてくるのは、この男か、清志(きよし)くらいだ。常に笑顔を絶やさない三橋を、凌我は軽蔑の眼差しでじろじろと眺めた。
母親代わりとして家事の一切を切り盛りする姉は今年、二十三になる。時折交わす会話から、結婚という言葉が飛び出すようになってきた。別に新居を構えるにしても、相手は十中八九、三橋だ。それについては父親も快諾している。だからこのまま、ぎくしゃくした関係では困る。頭ではわかっているのに、行動に移すのはなかなか難しい。
「……ねーちゃんのが化粧で睫毛(まつげ)盛ってるぶん、派手だよ」
わざと気を持たせるように大人びた眼差しで艶笑してやると、三橋は目を瞠(みは)り、言葉を詰まらせた。
血が繋がっているだけあって、姉の仁菜と自分とは顔かたちがよく似ている。そのせいか、三橋は時々勘違いするようだ。今日のように半袖やタンクトップなど、素肌が露出する衣服の時は必ずといっていいほど、いかがわしい目つきで身体の線を辿られる。まだ日焼けしていないんだね、などと言ってはさりげなく触ってくることもあった。それが薄気味悪くてたまらない。
やがて車のドアが閉まる音が周囲に響き、塀の陰から姉の仁菜が現れた。緩い巻き髪で小さな顔を、キャミソールで細い肩を、マイクロミニのショートパンツとウエッジソールのサンダルで、ほっそりした脚の線を見せびらかしている。
「あ、凌我ー。今日はちゃんと帰ってくんの?」
いかにもギャルっぽい不機嫌な口調で、弟の自分にまで悩ましげな眼差しを寄こしてくる。その生白い細い腕からは想像もつかないほどタフな姉だが、三橋の前だといくらか仕種が女らしい。
「たぶん」
素っ気ない一言ですませると、姉は細い眉尻を下げた。
「遅くなるようなら電話してよ。玄関鍵かけとくから」
「んー。じゃ、いってきまーす」
肉親には、自然な笑みを向けられる。姉はぞんざいに手を振ってくれた。その横に肩を並べて佇(たたず)む三橋を完全に視界から遮断し、不快感を振り切って狭い道路を駆けた。凌我が目指す場所、そこには見慣れた顔触れが揃っているはずだ。皆、普段は悪ふざけばかりしている仲なのに、今はひたすら懐かしく、恋しかった。
メンバーの誰かが空腹を訴え、早々に食事を摂ることにした。
所持金額は皆、似たり寄ったりだ。とりたてて裕福な家庭でお小遣いもたんまり貰っていて、などという恵まれた立場の者はいない。一時的にそういう人種と仲良くなっても、口実をつけて金をむしっていくので自然、向こうから寄りつかなくなった。よって、小銭でも事足りる店になる。
「チクショウ、はずした」
食べ終わったハンバーガーの紙屑(かみくず)をダストボックス目がけて投げたものの、やや下方にぶち当たって床に落ちた。席に着いたままゴミを捨てようとした横着な凌我の差し向いで、稔(みのる)が冷静な顔つきで馬鹿にする。
「あんな投げ方で入るわけねーだろ」
「んじゃお前やってみろよ」
「おー、いいぜ。見てろ」
単純な稔は、簡単に挑発に乗った。その様子を、今度は他の仲間が頬杖をついたりケータイをいじったりしながら、小馬鹿にしたような半眼で流し見ている。
凌我同様、掌(てのひら)で紙屑を固く丸めて目標を定め、いざ、大きく振りかぶった。
「……フン!」
稔の真剣な表情と鼻息の荒さに意気込みは充分感じられたが、紙屑の球は勢いあまってダストボックスを越え、向こう側の席のまったく関係のない客の足元に落下し、コロコロ転がった。
「ぶっ……」
皆が一斉に顔を背け笑いを堪えるなか、清志がひとり椅子から立ち上がる。その逞しい広い背中を、凌我は上目遣いに目で追った。
「すみませんねー。アイツら本当、馬鹿で馬鹿で」
無邪気な笑顔で軽く頭を下げながら、ゴミを投げつけられた客の足元からそれを拾い上げる。ダストボックス近くに落とした凌我のゴミも清志が片づけてくれた。
振り返りざまに、目が合う。清志は意味深に笑ってすぐに視線を外し、鷹揚な足取りで再び席に着いた。ジーンズのポケットから緑のボックス煙草とライターを取り出すと、手慣れた動作で火を点ける。
ぼんやりと遠くを眺める横顔に、高校生らしさはない。そもそも未成年者の喫煙自体非難されるべきことなのだが、周囲は誰も咎めない。清志は堂に入った態度で紫煙をくゆらしつつ、その場にいる仲間から意識を遊離させる。
夢中になっている時とそうでない時の差が極端で、それが如実に表情へ出る。清志は何に対してもそうだ。だから凌我は戸惑ってしまう。他の仲間も気づかないほど些細な事柄でも勝手に気を揉む。
一緒に遊んでいても、稔や他の人間にはこんな感情を持たない。結局、自分にとっても清志が特別な存在だと認めざるを得なくなる。胸の奥にずしりと負荷がかかり、凌我は顔をしかめた。気を紛らわすために氷の融け切った、水の味しかしないコーラをストローで底まで啜る。
「出るか」
一服を終えた清志に退出を促され、集団で店を後にする。夜の帳(とばり)も下りてすっかり暗くなった駅前のアーケードには、会社帰りのサラリーマンから私服の若者、制服姿の高校生、夜の職業、裏社会系と多種多様な人間が入り乱れていた。路肩に横付けされた高級車が両側で列を成す。大学生くらいの集団がはしゃいで居酒屋の中へ入っていく。いつもと変わらない光景だ。
「あ、俺寄りてーとこあるから、先行ってて」
「んー」
背後からの呼びかけに、凌我はそれが誰なのかを確かめもせず前を向いて了承した。
「凌我はこっちー」
Tシャツのネームタグの辺りを掴んで引き戻され、ぐっと喉が絞まる。噎(む)せながら振り向いて犯人を確認してみると、案の定、清志がそこに立っていた。
手ぶらの自分と異なりバックパックなどと仰々しい物を背負い、チノパンのベルトループにつけたカラビナにスティードの鍵や家鍵までぶらさげているあたり、きっと朝まで帰らないつもりなのだろう。そしてその遊行に自分をつきあわせる気だ。
口では合流するようなことを言っておいて平然と他所(よそ)へ向かう、清志の悪癖を知っている仲間たちは横目で笑ってヒラヒラと手を振る。特別扱いに喜ぶ半面、依存し合わないですむ仲間と清志の関係を、凌我は心底うらやましいと思った。去っていく仲間の後ろ姿を無意識に見つめる。
「あっち行きてえ?」
問いかけられて、清志の顔を仰ぐ。向けられる眼差しはひたむきで、真剣だ。凌我は首を横に振った。途端に清志が険相を崩す。
ニヤけた口元を掌で覆い隠すようにしながら、仲間とは逆方向へ歩きだしてしまう。凌我は慌てて後を追った。
「あっ、なに、デッキ持ってきてんじゃん。きったねえ」
清志のバックパックはスケートボードブランドの物だけあって、ちゃんと板の収納が利(き)くデザインになっている。挟み込まれた清志愛用のデッキに気づき、凌我が声を荒らげると、
「俺は万事抜かりねーの」
振り向いてそう返す清志の驕慢(きょうまん)な笑顔、その凄艶さに思わず唸った。女殺しの術にまんまと嵌(はま)る。そんな迂闊な自分がやりきれなく、苦い思いで立ち止まると、清志に手首を掴まれた。
不思議だ。性対象として扱われることに不安や憤りを持ちながらも、やはり友人として心を許しているからだろうか。街中で手をつなぐ、そんな恋人ごっこに気恥ずかしさこそあれ、どうしても嫌で即刻離れたいというわけじゃない。悪ふざけの延長みたいなもので、変な意識もなく許せる。
人通りの少ない場所に移動してから、清志はおもむろにバックパックからスケートボードを抜き取った。地面にデッキを置き、利き足を前に早速滑り始める。
段差や傾斜、壁面など、あらゆる物を利用して、ジャンプしたり、ターンを決めたり。愉しそうな表情で縦横無尽に往き来する。よろけて塀から落ちそうになれば派手な動作で転がって、大げさに痛がった。そうして清志がふざけてやっているのを、通行人が心配そうな顔で見つめ、酔ったサラリーマンなどが笑顔で助けを差し伸べたりするので恐縮そうに手を借りたりしている。
「ははっ」
ラーメン屋の軒先のベンチに腰かけて、凌我はそれを笑って眺めていた。
センスがよくクォリティーの高いトリックの連続に、周囲からどよめきと歓声が沸く。いつの間にか人が集まってきていた。当の清志はそれらに一切気にとめない様子で、好き勝手に路面を使う。さながら独壇場だ。
行動範囲を広げていく清志の姿を見ているうちに、凌我はだんだんと心許なくなってきた。
もしも清志が自分を仲間と同じ扱いにするのなら、勢いに乗ってそのまま走り抜き、壁向こうに消えるだろう。後に残したものを気遣ったりしない。自由気儘に行動する。
そう考えると清志の行き先が気になりだして、凌我はもう目で追うのを止めた。アスファルトに削り取られるウィ―ルの音が遠ざかっていく。
しばらくして、デッキを手に掴んだ清志がこちらに走り寄ってきた。
「なんで戻ってくんの」
ベンチに深く腰を据えた状態で、目線だけ相手に預けて問いただす。まだ遊んでいていいのに、という言葉をつけ忘れ、出し抜けの詰問になっていた。そのことに気づき、再び口を開きかけると、
「なんでって……お前がいるからだろ?」
清志はわずかに眉を顰(ひそ)めて、真顔で答えた。
ストレートな言葉に胸を打たれる。凌我は強気な眼差しで相手を見返した。
必要以上につながりを求めてるのは、おそらく自分のほうだ。
友達でいい、友達としてつきあいたいと願う一方で、それでは満足できない欲深な思いがある。じゃあ具体的に清志のどういう存在になりたいのかと、聞かれれば答えにつまるけれど。
「あー畜生、いー匂いだな……晩メシ、ラーメンにすりゃよかった」
隣に腰を下ろして、背もたれに両腕をかけながら、清志がしみじみした口調で言う。地面に置かれたデッキを足で奪い、左右に転がしながら、凌我は下を向いて提案した。
「一杯食ってくれば? 俺いらねー」
「お前、さりげなく冷てえよな」
腕を払い膝の上に肘を落として、前屈みの体勢で顔を覗きこまれる。だいぶ気持ちが落ち着いて、挑戦的な目つきで清志を見て笑うくらいの余裕も出てきた。向こうはニヤついて、デッキを足で取り返す。すかさずその脛(すね)を蹴りつける。
「いて」
清志は足の甲を踏んでやり返してきた。子供じみたじゃれあいを繰り広げている最中だった。
「キヨシだー」
道の向こうから若い女の二人連れがピンヒールの踵(かかと)を鳴らして、近づいてくる。
「……誰」
彼女らに聞かれないよう声を落として尋ねると、清志は朗らかに笑って返した。
「あー、ははははは、ピンクのおねーちゃん」
「は?」
「前ナンパされてさ、ちょうどこないだも二人がかりで俺のこと可愛がってくれたりして、まあ肉体的に世話になってる感じかな」
短く説明し、女たちにヒラヒラと手を振る。清志の目線はもう彼女たちのものだ。
「……ふーん」
軽薄な笑顔を横目に流しながら、凌我は一応納得した。
「キヨシの友達?」
興味津々、といった表情で女たちが聞いてくる。年齢はどちらも姉と同じくらいか、少し上か。間違ってもラーメン屋の軒先に立つような身なりではない。
あからさまに不機嫌な表情で不躾けな眼差しを向け、無言を貫いていると、清志が横から口を挟んだ。
「そう。凌我っつーの」
「リョウガくん? あは、かっこいー名前。キヨシと大違い」
「うるせってんだ」
さっき自分とじゃれて遊んだように靴底で蹴りつける仕種のみをする。女たちは高い声を上げて笑い、後ろへよけた。いつまでも消極的な態度でいる凌我にはもはや目もくれない。女のひとりが甘えた目つきで清志の手を取り、ベンチから立ち上がらせ、するりと腕を絡める。
彼らの間ではごく自然な流れに、凌我は辟易して意地でもベンチに居座った。彼女でもない女にそんな簡単にくっつくのを許すなよ、だいたいなんで勝手に人の名前教えてんだよ、と、下半身のルーズな清志に対して沸々と怒りが込み上げてくる。据わった目に敵意を漲(みなぎ)らせて、清志と女たちが仲睦まじい雰囲気で話すのを眺める。
「ヒマなら部屋来ねーかってよ」
悪びれもせずに清志が呼びかける。どうして目も口許も笑っているのだろう。そんなことをふと疑問に感じながら、凌我は無表情で訊いた。
「……清志はなんつって答えたの」
「俺? いーよって言ったよ?」
八重歯をちらりと覗かせて、あくたれらしい笑顔を浮かべる。その整った顔に拳のひとつでも叩きこみたい。激憤を抑えて、凌我は冷笑した。
自分は絶対に行かないという意思表示のために、立て膝を抱いてそっぽを向く。女たちは清志を部屋に連れ込むのに必死な様子で、表面的な優しさで凌我を慮(おもんぱか)っては、事を急かす。清志はまたふざけ半分に、
「なんだよ、俺が相手しねーから拗ねちまったの?」
そう言ってからかい、凌我の目の前に屈み込んだ。
あてつけがましく溜め息を吐き、厳しい表情でまた横を向く。そして低い調子で告げた。
「そうじゃねーよ、馬鹿」
「え、じゃあなに。なにが気にいらねーの?」
膝を揺すって距離をつめ、首を傾げ、無邪気を装った上目遣いで問う。清志は面白がっている。翻弄される自分の反応を見て、愉しんでいる。
事実がわかっても、裏を返して清志の鼻を明かすような真似はできない。自分の余裕のなさを知り、かえって辛くなった。
「ねー、ちょっと部屋片づけてくるから、その友達と話すんだら来てよ」
女のひとりが清志に言う。清志は了承を示した。しばらく笑って慰めていたくせに、女たちがひとまず去ったことで飽きがきたのか、大儀そうに腰を上げる。状況の変化に、凌我の身体が強張った。動揺して視線を泳がせる。
「……」
清志は、再びベンチの隣に座った。
無造作に煙草の箱を取り出す。凌我は頭の後ろでライターで着火する音を聞いた。ゆったりとした煙が流れてくる。ふたりきりの時間を取り戻して、ようやくすこし冷静になれた。
自分に意識をむけさせれば、彼女らを必要としない。凌我はそう思った。
だから自尊心を捨て、媚を売った。
寝たふりをして目を閉じ、頑健な肩に額を擦りよせると、清志がこちらを向く気配がした。吐息が触れ、緊張したが別に何もされない。
意を決して膝から手を落とし、清志の無骨な指に重ねてみた。けれど単なる遊びと判断されたか、力をこめて何度も握り返される。耳元でふっ、と短い笑い声が漏れた。清志は余裕たっぷりだ。
こんな程度では注意を引けない。けれどこれ以上、積極的に動けなかった。そう簡単に恥をかけない。自尊心が許さない。
「……俺、やっぱ帰る」
眠たそうに顔を擦りつけて、ぼやく。甘えてくっついたのは泣き顔を隠すためだ。なのに清志は軽い調子で笑う。
「なんでよ。一緒に遊ぼうぜ」
「……」
「凌我?」
「ねみーし、帰る」
強気な口調で言い放つ。凌我の声だけが、人の数もまばらな裏通りの店外一帯に響き渡った。
「つったってまだ九時前……」
「……」
意見しかけて言いよどむ、清志のその次の言葉を息を潜めて待つ。ラーメン屋の中から客の笑い声が聞こえる。静けさと暗がりを利用して、凌我は自らの額を清志の肩に押しつけた。緩慢な動作でそのまま顔を左右に振り、閉じた瞼(まぶた)から滲み出た水分を拭う。
「じゃ俺ん家(ち)、来る?」
隣で黙していた清志が、ようやくこちらを向いて口を開いた。
決して妥協案ではない、ある程度深い意味をもった誘い。乗らないわけにいかなかった。拒絶すればきっと笑顔でサヨナラを言い渡される。そして清志は女たちと過ごす。
顔を上げて、涙目で清志を見つめる。清志は少し驚いたような顔をしてから、微笑した。絡めていた指を外して肩に腕を回す。繰り返しの摩擦でボサボサになった凌我の頭を、優しい手つきで撫でてきた。
「かまってほしいんなら、最初から素直にそう言え」
思慮深い声で諌(いさ)められて、頑なだった心が解けた。
清志がさっきの女たちに断わりの電話を入れる。電話口から洩れる抗議の声を聞いても、勝利した気分にはならなかった。やがて会話を終えた清志が、携帯電話を閉じて膝の間に手を滑り落とし、無言で見つめてきた。
「ありがとうございましたー」
ガラガラとラーメン屋の引き戸が開いて中から客が出てくる。と、同時に、白い濛気(もうき)が真夏の夜の闇に溢れだした。
続く…
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