プレイグラウンド 第二話/松田美優 第二話

 よく晴れた空に累々と盛り上がる積乱雲、どこかの立ち木に止まって種別個別に鳴く蝉。
 活気があるのはそれくらいのもので、容赦なく降り注ぐ直射日光に焼かれ地表に面するありとあらゆるものが水気を失っていく。
 クリアベージュの髪の生え際に汗を滴らせ、きつい照り返しに白く霞む地味な町並みを眺める。凌我(りょうが)の眼差しは熱に浮かされたようにぼうっとしていた。色褪せたベンチの背凭れに両肘を預け、そこにふんぞり返りながらスラックスを穿(は)いた長い脚を伸ばす。
 放課後とはいえ真夏のこと、三時半ならまだ目が眩(くら)むほどに明るく、蒸し暑い。日陰に入っていもなお、生暖かい風が素肌にまとわりつく。夏の熱気が緩慢な動作と空気感を作りだし、同じく横柄な態度で隣に並ぶ学友兼遊び仲間たちを一様にくたばらせている。
 ふたつの地元高校の最寄駅だけあって、田舎の無人駅ながら、そこそこ人は集まっている。目を閉じて小鳥のさえずりにも似た女の子たちの心地よい声に耳を澄ます。と、そのまま意識が遠のきそうになり、凌我はあわてて身を起こした。脱水症状を起こしかけているのかもしれない。この時季は危険だ。
 前屈みになり両手を組んで、線路向こうにある、踏切脇の寂れた商店の自販機を見通す。店先の道路が車が通過する度に砂埃(すなぼこり)を舞い上げるせいか、そこだけひどくぼやけていて、目を眇めてみても商品名を読むことはできない。
 制服の尻ポケットから長財布を引きずり出して中身を確認してみた。小銭ばかりでもジュース代くらいならある。ただし横の連中にたかられるのは絶対だ。
 メリットとデメリットを天秤にかけ、凌我は一時間に上下線合わせて二本しかこない電車をもうすこし待つことに決めた。チェーンごと財布を元に戻す。代わりに昼間クラスメイトからもらったガムを口に入れると、ミントグリーンの爽やかな香りが鼻腔を突き抜けた。唾液が湧き、口中が潤う。音に気づいたのか、隣に座る稔(みのる)が物欲しそうな視線を寄こしてきた。それを冷めた目つきで無視し、誰ともなしに訴える。
「暑い……」
 言葉を発することすら面倒なのか、仲間は皆だるそうに目を伏せて無言を貫く。手持ちのうちわを煽ぐ者もいる。そんな中でただひとり、右端のベンチで脚を広げる大柄な人物が皆の背中越しにこちらを見たけれども、凌我は気がつかないふりをした。
 項垂れてガムを噛む。視界の隅を真っ赤なクロックスサンダルを履いた幼児がよちよちと歩く。
「やだーかわいー」
「やだーきゃわいー」
 近くにいるらしい少女の甲高い声に似せて、仲間内の誰かがすかさず気色の悪い裏声を出す。凌我が顔を上げると、他校の制服を着たカップルが幼児をあやそうとしているところだった。女のほうはやけに人懐こい笑顔を浮かべており、その姿を見る男の瞳はもう溶け落ちそうに甘い。一歩退いた場所でおそらく幼児の母親だろう、清楚な身なりの婦人が微笑しながら立っている、という情景だった。
「いるんだよなー彼氏の前だと必死で母性本能アピールする女」
 辺りを憚(はばか)ることのない大声で言ってのける他の仲間の後頭部を、稔が笑って後ろから勢いよく叩く。
「馬鹿、聞こえるって」
「ダハハハ」
 けなされたカップルがむっとした顔でこちらを睨んでいる。凌我は我関せずとばかりに、無表情を決め込み、コンクリートの地面にペッ、とガムを吐き捨てた。
 そんな悪行を見過ごすわけにいかなかったのは、正義感にあふれる年少者だ。サンダルの踵をぺたぺたと踏んで怒り顔で歩み寄ってくる。母親の表情が一気に青ざめた。
「ポイちちゃだーめ」
 目を尖らせて幼児が言う。天然パーマらしい巻き毛にフリルのコットンワンピースと、愛らしい外見に反して、仁王立ちする女児の態度は堂々としたものだ。真正面から非難されれば、凌我とて素直に詫びるしかない。
 真顔で視線を絡めたのち、
「あ、……すんません」
 軽く会釈し、捨てたガムを拾いにベンチから腰を上げる。仲間の哄笑(こうしょう)が響く中、女の子は駆け寄った母親に腕を引かれてどこかに消えた。
 監視の目はないが、約束は約束だ。
 凌我が吐き出されたガムの前に屈む。地熱に溶けてくっついてしまったらしくなかなかうまく剥がれない。作業に難儀し、じれったい思いでそこを見つめる。
「馬ー鹿」
 仲間の誰かが悪ふざけをして、無防備にも丸めた背中を土足で蹴りつけてきた。
「ちょっ……」
 不意を突かれて前のめりによろめき、地面へじかに両手をついたところをまた別の誰かにやられる。
「馬ー鹿」
「馬ー鹿」
「お前らふざけんなよ」
 四つん這いの体勢から素早く向きなおり、尻もちをついた状態で、凌我は文句を言いながらも快活に笑った。
 子供じみた戯れ。それに似つかわしい屈託のない顔でポケットに手を突っ込みながら立つ悪友どもの中に、ふと、無言で自分を見下ろす凶暴な視線があるのを捉(とら)える。
 真一文字に結ばれたままの口元。美形だが迫力のある様相。量の多い毛髪を大雑把に後ろへ流しただけで様になる人物。
 清志(きよし)だった。
「……」
 笑顔が固まる。息をのんで見つめ返す。そこへ何も知らない仲間がチャンスとばかりに背後へ回り、しつこくからかいの手を伸ばしてきた。
 正確には足だったし、狙われたのは頭で、白シャツの肩から背中にかけても様々なキックスの痕跡が残されているのだけれど、凌我には幸いだった。ふざけあいに紛れて清志の目から逃れることができる。実際、その思惑はあたったはずだった。
「クッソ、髪の毛グチャグチャになっちまった」
 これで多少の手加減がされていなかったら間違いなく集団暴行だろう。地べたを転げ回り、全身埃まみれだ。乱れた長い前髪の合間に甘い笑みを覗かせて、凌我はふらりと立ち上がった。
「便所行ってこよ」

 ホームを下りてすぐ、駅舎の外れに手洗い所がある。
 手元、あるいは腰回りが隠れる程度の囲いしかない男子用と、男女共用の個室ひとつずつでは敬遠されるのか、利用している人間をあまり見たことがない。それでも水回りはさほど汚い印象は受けなかった。鼠落(ねずみお)としの横に据えつけられたプラスチック製の古いゴミ箱へガムの残骸(ざんがい)を投げいれ、水道の水を出しっぱなしにして手を洗う。そのまま多少火照りを冷まし、両手を振りたくって水気を弾き飛ばしながら外へ出、猛烈な陽光を浴びる。
 視野の違和感にふっと顔を上げれば、認めたくない現実がそこにあった。
「俺も便所」
 訊いてもいないのに、清志が言う。腰あたりまで高さのある植え込みのせいで道幅はかなり狭くなっており、目前に堂々と立ち塞がるこの男をどかさなければ通るのは不可能だった。凌我は押し黙り、きつい陽の光に逆らって相手を睥睨する。
 腕ずくでは清志に勝てない。ベッドで思うさま蹂躙(じゅうりん)されてそのことをはっきりと思い知らされたあの日から、今まで以上に警戒を強めてきた。同じ遊び仲間と行動をともにしていてもさりげなくそばを離れ、会話を避けた。それが逆効果だったのだろうか。
 対峙(たいじ)する場面など容易に想定できたはずなのに、目先のことに意識が集中しすぎておざなりにした。その結果、こうして向かい合ってみれば、何の対抗手段も持ち合わせていないことが白日の下に晒される。
 凌我は緊張に身を硬くした。平静を保とうと思えば思うほど、ボロが出る気がしてならなかった。
 清志はろくに瞬きもせずにこちらを見つめてくる。普段の横暴ぶりからは想像もつかない、優しい眼差しで。
 健全な仲が壊れ、ふたりの関係性は確実に危険な変容を遂げつつある。その速さに圧倒される。凌我はわななき、憂苦に眉をひそめ、やるせなく目を伏せる。
 はやる鼓動が闇雲に恐怖感を煽っていた。呼吸を一度整えてから、それでも相手の顔を仰ぎ、乾いた声で言い渡す。
「……どけよ」
 その瞳に怯(おび)えの色がちらついているのを、清志は鋭く察知したようだ。くっ、と片側だけ口の端を上げる。残忍な表情だった。
「お前がどけ」
 目を細め、柔らかい口調で命令する。
「……」
 凌我は上目づかいに睨みつけた。けれどそんな非難の眼差しも、傲岸不遜な態度に弾き返されてしまう。狼狽(ろうばい)はやがて凌我の視線をうつろわせ、焦点を見失わせるきっかけにもなった。口惜しさを呑み込み、首を垂れながら片足わずかに後じさる。意識的に空けたはずの距離は、そのぶんにじり寄られて簡単に縮まった。
 たじろいで顔を上げ、冷やかすような清志の目に捕まる。
「んな怖がんなよ……」
 失笑交じりの声に揶揄(やゆ)されて、きゅっと下唇を噛む。
 こめかみから伝い落ちる汗は、必ずしも陽気のためではない。凌我は肩で息をしながら、ごくりと生唾を飲んだ。
 やや下方にのぞむ視界を、大柄で上背もある清志の制服姿が覆い尽くす。半袖シャツから伸びる少し日に焼けた腕は、恐ろしく逞しい。胴回りも太くしっかりしている。これが数日前、酒に酔った自分をほしいままにした男の身体だ。そう実感するとたまらなくなった。
 瞳が潤み、視界がぼやける。頬が異様な熱を持つ。凌我は即座に顔を伏せ、それら表情の変化を上手く髪の裏側に隠した。被害者が抱く心情としてはもっとも不適当な衝動にかられ、ひとり愕然とする。のしかかる屈辱と後ろめたさに耐えながら、喉の奥をわなわな震わせる。注意の先が完全に自分の内へ向かっていた、そんな折だった。
 やにわに手首を掴まれて、あっと思う間もなく、凌我の身体は太い腕の中に包み込まれていた。突然の事態に驚き目をみはり、呼吸も忘れる。
「心臓の音、すげーなお前」
「……」
 頭上から落ちてきた率直な言葉に、凌我は俯いて左右に頭を振った。鼓動までは抑制できない、それがじれったくて歯がゆい。
 これではきっと、別の意味に取られてしまう。
「違う……」
 小さな声で反論する。けれど心臓音は激しくなる一方だ。清志の白シャツから漂う清潔な香り、吐息に混じる煙草の香り、ほのかに鼻腔をくすぐる汗の香り。意識してはいけないと意識するほど、密着の中にそうした清志固有の要素を探してしまう。
「違うって、なにが?」
 笑って訊ねてくる、囁くような甘い声が脳を刺激する。清志が欲しているものと、自分が求めるものは違う。それは判然としている。なのにねじ伏せられてしまいそうな危機感が、確実に存在する。
「……」
 喉まで出かかっている言葉を呑み下して、凌我は怯懦(きょうだ)に濡れた瞳を暗く輝かせた。
 愚かしいことと知りながら、友人として嫌われたくないばかりに、その決定的なたった一言がいまだ言えずにいる。
 額に、清志の顎が当たる。次は頬だ。肌を擦り寄せられ、鼻先が触れて、目が合う。視線を繋いだままで、清志が端整な顔を傾ける。
「……っ」
 凌我は過酷な現状から咄嗟に目を逸らした。
 唇が重なる。閉ざした瞼の裏側、近い距離に感じる体温や息遣いは確かに男のものだ。それでも相手が同性であるという嫌悪感はまるでなかった。致命的なことに。
 求められるまま唇を開き、煙草の味がする濡れた舌を甘受する。
 靴跡だらけの白シャツの背中を、清志が悩ましげに掻き抱いてきた。獣じみた荒い呼吸が耳朶を打つ。口中をくまなく探られ、わずかな唾液まですくい取られていく。
 なにもかも清志本位の、強引なやり口。今はそれがありがたかった。全部相手方による横行として片づけてしまえば自分の体面は保たれる。場も凌げる。今は流されることしかできない凌我には渡りに舟だった。暗く湿った手洗い所に連れ戻され、乱暴に個室内へ押し込まれた時も、逃げれられない状況をかえって悦んだ。
 閉じ切りのドア、狭いがゆえの密接感。風もなく音もない静かな環境。狭小ながらもそこにふたりきりの空間が生まれる。かりそめの遊び場を手に入れた清志は、性急に身体を求めてきた。その表情には鬼気迫るものがあり、形ばかりの抵抗を試みる凌我を黙らせ、やがて観念させた。
 ドアに押さえつけられた背中はじっとりと汗をかき、シャツが肌に張りつく。唇をこじ開けられ、貪られる。
「ん、……はあっ……、はあっ……」
 衣服越しに胸の突起を指で潰すように揉まれ、いよいよ立っているのも辛くなってきた。湿度が上がり、心拍数も上がる。性的な興奮は募るばかりだ。
「んっ……」
 蕩けそうな声を漏らして凌我が身をよじる。とても平静を取り戻せそうにない。おそらく自分以上に弱い部分を把握しているのだろう、清志が耳朶、首筋、鎖骨と少しずつ唇を下降移動させていく。呼吸を喘がす中、シャツの上から乳首に歯を当てられて、凌我は噛み締めた唇から声なき悲鳴を漏らした。
「……っ、う」
 引きちぎられそうなほど強く噛まれて痛みに呻く。膨れ上がったそこを今度は濡れた舌に優しく慰められ、安堵の息を吐く。それを交互に繰り返され、シャツの擦れにも刺激を感じるほど過敏になったころ、色が変わるまできつく吸い上げられた。
「あー……っ」
 一瞬にして意識が飛ぶ。総毛立ち、ドアにへばりつく。
 唾液に濡れた部分に熱い吐息を絡めて、清志がまた舌を這わせる。そして吸う。
「あっ……、んっ、あっ、あっ」
 凌我の声は止まらなくなっていた。せめて横を向き、清志から視線を外す。けれどそれは、痛覚と恍惚の間をさまよう妖しい快感を真っ向から受ける羽目になった。
 小窓から差し込む溢れんばかりの陽光により個室内はほの明るく、その熱でタイル敷きの床は乾ききっている。白磁の水洗タンクの表面が光沢を放つ。薄い壁は落書きだらけだ。
 周囲の光景を清志の肩越しに眺めながら、気を紛らわせようと努力する。自然と腰が揺らめくのを恥じ、吐息混じりの声を洩らす。いくらか我慢しても唇はやがて開いてしまう。
「お前声でけえよ」
 そう言って笑う清志の掌に口を塞がれるまで、狭い個室内にはもう留め切れない音量の喘ぎが満ち溢れているのを、凌我は自覚できなかった。
「あーあ、こっちもすげえな」
 下を向いて、清志が浮薄な笑顔を見せる。悪戯な八重歯がちらりと覗く。胸にもたらされる甘い疼きを腹立たしく思いながら、凌我は腰回りに加わった新たな感覚に再度目を閉じる。
「濡れてる」
 清志の手が、ベルトごとスラックスを浮かして生じた隙間に捻じ入れられていた。下着の上から形状を辿られると、そこはまた硬度と角度を増す。目視するまでもなく、肌に返る冷たさで自分の下肢が今どういった状況にあるのか嫌でもわかる。
「直接吸ってやるよ」
 口元から手が離される。清志は片手で器用に前を外し、そこに潔く屈み込んだ。
「……ん」
 目も眩むような悦楽に吸いこまれて、凌我は喉仏を上下させた。
 所在なく握りしめた拳を、清志の掌(てのひら)に包まれる。指先をほぐされ、一本ずつ絡められる。片手を繋ぐ、たったそれだけのことで安堵する。
 幼稚なふりをして巧緻にもてあそぶテクニックは、口淫のときも同じだ。凌我は容易く上りつめる。深々と口中に引きずり込まれ、心まで持っていかれる。ウォレットチェーンに財布、携帯電話、革ベルトと重量物を担うスラックス、そして下着を絡ませた膝が、がくがく震えた。
「んうっ、んっ、んーっ……」
 恥ずかしげもなく音を立てて吸い上げる清志に玩弄(がんろう)され、凌我は息も絶え絶えになっていた。突き崩される理性はやがて意識から遠く離れ、霧散する。
「あ……っ、あっ……」
 泣き声を上げて、自らも腰を突き動かす。清志の髪を狂おしげに撫でては、乱暴につかみ、手前へ引き寄せる。涙目で見下ろす光景は、醜悪の極致であり、非現実でしかない。
 弾む息に合わせてチェーンやベルトの金具が揺さぶられ、ガチャガチャと忙しく鳴り響く。凌我は目をつぶった。
「清志……っ」
 喘ぎながら、声を振り絞ってその名を叫ぶ。
 即物的な行いを、これもふざけあいの一種だ、冗談の範疇(はんちゅう)だと無理に決めつけて頭で割り切る。凌我は歯を食いしばり、繋いだ手にぎゅっと力を込めて、激しく身震いした。
 幼児に素行を注意されるほど行儀の悪い自分と違い、清志はたとえ何の残滓(ざんし)だろうと、一度口の中に入れたものを吐き出すという概念がないようだ。さもうまそうに、喉を鳴らしてそれを飲み下す。一滴残らず搾り取ると今度は周辺を舌で清めにかかる。これではいつまでも終わらない。剥き出しの両腿に力強い腕を回し、下方から角度を変えて攻めたりと、再燃を目論む気配まである。
「……」
 凌我は肩で息をしながら、口中に溜まっていた唾液を飲み込んだ。激しい脱力感からくる気だるい眼差しを、足もとに屈み込む人物に向けて終わりを促す。
「清……」
「フンフンフーン」
 外から聞こえてくる下手くそな鼻歌に、吐息混じりのような囁きはあっさり掻き消された。誰かが近づいてくる。凌我は身構えた。
 タシ、タシ、タシと、コンクリートの上をソールの踵で削っていくようなだらしのない足取り。合間に鳴り響く金属製の高い音が、仲間だと知らしめる。
「フーン、フンフンフン、フ、……え、えっくしょっ!」
 ご機嫌でいたところをクシャミに邪魔され、気が逸れたのは、仲間本人ではなく清志だった。
「くくっ……馬鹿、笑わすな」
 口元に拳を当てて小刻みに肩を揺らしながら横を向き、低い声で個室の外の人間に話しかける。興味の対象が自分からよそへ移ったらしいことを知った凌我の表情は、清志のそれとは対照的に暗く、憂鬱な影を落とした。
「おー、なに。中にいんの、清志? 凌我は」
 閉ざされたドアの向こう、ちょうど背中の裏側から、仲間が特徴的な太い声で呼びかけてきた。横柄ながらどこかのんびりした口調に、声の主が誰なのか凌我にもすぐに見当がつく。
「知んねえ。入れ違いにどっか行った」
 幼馴染みを相手にそ知らぬ顔で嘘をつき、ゆっくり立ち上がる。清志の態度は平然たるものだ。凌我は呆れる反面、その気持ちの切り替えの早さに感心した。
 乱れた息と着衣を整え、冷静さを呼び戻す。個室内に立ちこめていた甘い空気が抜けていく。そうして平常が訪れたかに見えた。
「アレかな。さっき子供に注意されたんがショックだったかな。それとも俺らがかまいすぎたか」
 用を足した稔が洗面台で手を洗いながら、底意地の悪い言い方で冷やかす。その声を、凌我は腕の中で聞いた。
「さあ。でもアイツ、意外と気い弱えーしよ。冗談抜きで本当に、すみっこに隠れてひとりで泣いてたりして」
 八重歯を覗かせて答える清志の手が、優しく身体を引き寄せる。密着を強要する。濡れた睫毛(まつげ)に唇を当てられて、凌我は息を詰めた。愛情深い仕種が疲労で重くなった瞼をごく自然に閉じさせる。
 先に行く、と言い残して、稔は早々に手洗い場を出ていった。呑気な足音が遠ざかり、あたり一面に静寂が広がる。
 凌我は心地よさに陶然となりながら、大事な場面では言えないその一言を小さな声で呟いた。
「……やめろよ」
 一瞬の間が空く。それから不敵な忍び笑いが落ちた。
「やめない」
 同じ声量で言い返し、きつく抱き直してくる。拘束される腕の力強さに凌我は深く酔いしれた。
 清志は野心家だ。一般常識を押しつける程度では絶対に引かない。生半可な拒絶ならなおのこと、勇んで踏み込んでくる。
 そういう性質をわかっていて、口にした。確認した。
 清志に求められている自分を。


続く…
 
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