たとえ偽りの運命(さだめ)であっても/いとう由貴 第一話

 ウォートン寮の前に、次々と車が停車しては生徒を連れて走り去っていく。数台目の車に、隣にいた瑞樹(みずき)の表情が少しだけ緊張したものに変わった。
「じゃあ、行くね、アレク。電話するから、きっと家にも遊びに来てね」
「気が向いたらね」
 アレクはそっけなく手を振り、瑞樹を外に押しやった。自宅へ帰省するのにあんなに緊張した顔になるなんて、変な奴だ。それとも、瑞樹の父親はまだ瑞樹の母親とのことを気にしているのだろうか。
 もっとも、それでなくても瑞樹は父親から離れて育ったのだから、父親であるグラムスコート伯爵と瑞樹が少しばかりギクシャクするのも当然といえば当然だった。
 アレクのように、離婚も再婚もない夫婦の間に生まれても、邪険にされる親子関係だってあるのだ。
 瑞樹が自邸に帰るのに緊張しているように、アレクも生まれ育った家だというのに帰宅するのが憂鬱だった。
 特に夏季休暇は二ヶ月近い。
 長く、陰鬱な二ヶ月だった。
 実家から寄越された車を目にし、アレクはため息をついて荷物を持ち、ウォートン寮の階段を下りていった。
 いよいよ大嫌いな実家での日々の始まりだ。
 いつものことであるが、今学期もアレクの成績は中の下といったところで、スポーツで目立った活動をしたわけでもない。おまけに、監督生にも選ばれなかった。
 きっと両親だけでなく、兄たちからも馬鹿にされ、嘲られるだろう。
 アレクは自分を守るために心にしっかりと鎧を纏い、車に乗り込んだ。

 リンカシャーにあるセント・オールズリー侯爵家のマナーハウスまで、アレクは時折うとうとしながら車に揺られていった。
 やがて、堂々とした邸宅が見えてくる。周囲はほとんどセント・オールズリー侯爵家の土地だ。隣接するラングストン伯爵家とは互いに広大な土地に阻まれ、『隣』と いいながら屋敷が見えることはない。
 ラングストン伯爵家の従兄弟を思い起こし、アレクは少しだけ笑みを浮かべた。
 ラングストン伯爵家には父の妹であるヘレナが嫁いで、一男を産んでいた。それが、アレクたちの従兄弟レナードだ。
 しかし、ヘレナ夫妻はレナードが九歳の時事故で亡くなり、そのため、レナードは子供時代を伯父であるセント・オールズリー侯爵の下で過ごしていた。  アレクが誕生したのは、レナードが引き取られて一年余り後のことだ。そのせいか、レナードはアレクを実の弟のように可愛がり、アレクを疎(うと)んじる兄たちに代わって、かまいすぎるほどに世話を焼いてくれた。
 帰郷に当たってのアレクの唯一の楽しみは、レナードに会えることだけだ。週末ごとにロンドンから帰ってくる父や母は、みそっかすの末っ子であるアレクをもてあまし、気にかけてくれることはほとんどない。  長兄のオーガスタスは今はオーデリー子爵として父とは別に屋敷を構えているが、大学生の次兄クリストファーはそのうち家に帰ってくるだろう。そうしたら、アレクの成績や監督生に選ばれなかったことに対して、またチクチクと嫌みを言うに違いない。
 できのよかった兄二人と比べるとアレクがあまりにも劣るため、使用人たちからもなんだか見下されているような気がしてならなかった。
 そんな屋敷のどこにも、アレクの場所はない。
 自邸よりも、レナードのいるところだけが、アレクの安らげる居場所だった。
 ――荷物を置いたら、すぐにレナードに挨拶に行こう。
 アレクが帰郷する日を、レナードはきっと知っている。いつも、休暇のたびにそうだった。
 それに、今回はレナードに報告したいこともある。
 瑞樹たちのことだ。
 本人には恥ずかしくてなかなか素直に言えないが、瑞樹はアレクにできた初めての友達だった。
 しかも、瑞樹のおかげでエリクやウィルといった仲間もできた。
 生まれて初めて気安い仲間と一緒に行動したり、食事をする楽しさを味わい、アレクの心は前回の帰郷より少しだけ明るくなっていた。
 いつもいつも苛められている話ばかりしてきたレナードにも、今回ばかりはいい話ができる。
 もしかしたら今度こそは、アレクに仲間ができたことを父や母も喜んでくれるかもしれない。兄だって、友達ができたといえば少しはアレクのことを見直してくれるかもしれない。
 少しだけそんな期待をしながら、アレクは屋敷の前で停まった車から降りた。
「お帰りなさいませ、アレクサンダー様」
 執事が慇懃(いんぎん)に、アレクを出迎える。アレクが生まれるずっと前からセント・オールズリー侯爵家に仕えている中年の執事に、アレクはおどおどと頷いた。
「た、ただいま。お父様とお母様はもうロンドンから帰ってきたの?」
「さきほどお戻りになられ、お茶を召し上がっておられます」
「そう」
 アレクは小さくため息をついて俯いた。両親が帰宅しているのなら、早速成績のことや監督生に選ばれなかったことで小言を言われるに違いない。
「先にご挨拶をしたほうがよろしいかと思いますが、アレクサンダー様」
 アレクの心中を見透かしたかのように、執事が言う。
「わかってる」
 腹立ち交じりに、アレクはそっけなく返事した。
 別の使用人が、アレクの荷物を部屋に運んでいる。これでは、すぐに両親の元に行かざるをえない。
 アレクは渋々、両親が寛いでいる部屋に向かった。
 セント・オールズリー侯爵家は先々代から始めている輸入業が好調で、没落とは無縁に過ごしている。屋敷の中も十分に手入れされ、擦り切れた絨毯や色褪せたカーテンなど一枚もない。
 扉の前で息を吐き出し、アレクは沈んだ表情でノックした。
「入りなさい」
 父親の重々しい返事が返る。
 アレクはぎごちなく扉を開けた。
「ただいま帰りました、お父様、お母様」
 しかし、アレクの姿を認めると両親ともに顔を背け、挨拶に応えてくれない。
「あの……」
 アレクは戸惑い、口ごもった。
「さがれ」
 父親の声が、冷たく響く。
 アレクが呆然と立ち竦んでいると、母親が美しい眉をひそめてアレクを叱責した。
「お父様は失望しておいでですよ、アレクサンダー。オーガスタスはあなたの歳にはウォートン寮の総代を務めていたし、クリストファーだって監督生に選ばれていたわ。それなのに、あなたときたら監督生にもなれないうえ、あのひどい成績。わたくしもあなたにはがっかりしていますよ」
 それきり、母親もアレクからフイと顔を背ける。
 ティーカップを握る細く長い手入れのされた指先を、アレクは惨めな気持ちで見つめていた。
「早くおさがりなさい。顔を見るのも不愉快だわ」
「……はい。ごめんなさい、お父様、お母様」
 アレクは悄然(しょうぜん)と、両親の前から立ち去った。アレクの成績や学校での様子は、直接両親に知らせが届いている。だから、叱責されるのは覚悟していた。
 だが、両親はアレクに怒る価値もないと判断したようだった。それは、怒られるよりももっと惨めな扱いだった。
 アレクは二階の自室に戻ろうとした。
 ところが、階段で次兄のクリストファーとすれ違う。もう大学から戻っていたのだ。
 クリストファーは鼻を鳴らし、通り過ぎた。
「なんの役職にも選ばれなかったそうだな、アレク。おまえみたいなのろまが弟だなんて、恥ずかしくて誰にも言いたくないよ」
 通り過ぎざま吐き捨てられる。
 アレクは兄の嘲りを、唇を噛みしめてこらえた。言い返せば五倍くらいは大きくなって返ってくるし、そもそもどうやって言い返したらいいのか、アレクにはわからなかった。
 長兄のオーガスタスにこそ及ばないが、クリストファーも十分優秀な成績を修めていた。二人とも、アレクにはとても及びもつかない優秀な兄だ。
 だから、アレクはいつも、じっと我慢するよりほかなかった。
 泣くのをこらえて自室に逃げ込み、グレンフィールド校の堅苦しい燕尾服(えんびふく)から私服に着替える。チェックの半袖のシャツは裾をズボンの上に出してしまいたかったが、だらしない格好をするとよけい両親の怒りをかきたてることになってしまう。
 アレクはきちんとシャツの裾をズボンの中に入れ、そっと自室を出た。
 執事の目を掠めて、玄関から外に忍び出る。
 それから、納屋に行って埃だらけの自分の自転車を引きずり出し、飛び乗った。家にはもう一時だっていたくなかった。  夏の爽やかな風が、アレクのパサパサの赤毛をなびかせる。生っ白い肌はなかなか日に焼けず、代わりにあちこちにそばかすを散らせている。特に顔には、みっとみないくらいそばかすが散らばっていた。アレクの容貌で唯一綺麗だといえるものは澄んだ緑の瞳だけだったが、その数少ない美点も分厚い眼鏡で遮られているため、アレク自身すらわかっていない。
 ダークブロンドの髪に深い緑の瞳の長兄、焦茶色の髪に金色が散らばった灰緑色の瞳をした次兄と比べて、アレクは能力だけでなく、容姿でも明らかに劣っていた。  幼い頃からみそっかす扱いされ、使用人からも『侯爵家のできそこない』と言われているアレクを可愛がってくれたのは、従兄弟のレナードだけだった。  レナードだけは、アレクがいろいろな失敗をしても怒らない。勉強ができなくても馬鹿になんてしない。
 今は成長して隣家のラングストン伯爵邸に居を移している従兄弟の下へ、アレクは自転車を走らせた。
 ようやく着いた時には、急いで漕いできたため、息が切れている。
 玄関前に自転車を停め、アレクは重いノッカーを叩いた。
 すぐに、ラングストン伯爵家の執事が出てくる。侯爵家の執事と同じようにここの執事も無愛想だが、アレクを馬鹿にするようなそぶりは見せない。
 アレクはすんなりと、レナードのいる書斎に案内された。
「お帰り、アレク」
 ラングストン伯爵レナード・オールディントンが微笑んで、アレクを迎えてくれた。
「レナード、ただいま」
 大好きな従兄弟に駆け寄り、アレクはギュッと従兄弟に抱きついた。レナードもアレクを大事そうに抱きしめてくれる。
「少し背が伸びたかな、アレク。会うたびに成長するな」
 楽しそうに目を細めて、レナードがアレクを見下ろしている。そばかすでいっぱいのアレクの頬を両手で包み、レナードはアレクの様子を子細に観察しているようだった。
 最後にひとつ頷き、子供の頃と同じようにアレクの額にキスをしてくれる。
「グレンフィールドではどうだ? もう少し頑張れそうか?」
 心配も交えて、穏やかに訊ねてくる。アレクがずっと苛められていることを、レナードだけはわかってくれていた。  アレクは大好きな従兄弟をじっと見上げた。レナードの綺麗な菫色の瞳に見つめられると、アレクはいつも胸がドキドキした。あんまり綺麗で、やさしくて、醜い自分が恥ずかしくなってしまう。
 アレクが少し俯くと、もう子供ではないのにあやすように胸に抱きしめてくれる。
「大丈夫だ。アレクはいい子だよ。わたしはアレクが大好きだ」
 心を慰める囁きに、胸がいっぱいになる。
 アレクはポツポツと呟いた。
「……成績が悪くて、監督生にもなれなくて、またお父様とお母様に呆れられてしまった。顔も見たくないから向こうに行っていろと言われちゃったよ、レナード」
「だが、アレクは授業をさぼったり、ずるをしたりしたわけではないだろう?」
 問いかけられ、アレクはコクリと頷く。
 すると、レナードはクシャリと髪を撫でてくれた。
「精一杯努力しているのなら、それで十分だ。夏学期(サマー・ターム)では授業を休んだかい?」
 アレクは首を振る。
「課外活動はどうだった。たしか、夏学期には恒例のボートレースがあったな」
「頑張ったんだけど、途中で相手のボートにぶつけられて、友達が川に落ちてしまったんだ」
「友達?」
 アレクの言葉に、レナードが軽く目を瞠(みは)る。
 それで瑞樹を思い出し、アレクの表情がパッと明るくなった。
「そうだ! 友達ができたんだ。ミズキっていうんだ、レナード」
「友達が……そうか。たしかミズキというのは、アレクと同室の子だったね」
 ゆっくりと、レナードの頬に笑みが浮かび上がる。
 レナードに導かれながら、書斎に置かれているソファに並んで腰を下ろし、アレクは声を弾ませてレナードに話し始めた。
「最初はぼくもいっぱい意地悪をしちゃって……でも、ミズキはぼくを許してくれて、先学期から少しずつ話をするようになったんだけど、今学期も仲良くしてくれて……。他にも友……ううん、仲間ができたんだ」
「その子たちは友達とは言わないのか?」
 レナードの疑問に、アレクは少し視線を落として小さく首を振る。
「わからない。仲良くしてくれるけど……ぼく、自信がなくて……。レナードとはちゃんとしゃべれるのに、学校だとつい意地悪を言ってしまって……。ミズキと一緒にいるから仲良くしてくれているだけかもしれないって……思うんだ」
「大丈夫だよ」
 レナードが、アレクの髪にキスしてくれる。
「本当のアレクはとてもいい子なんだ。きっとその子たちもわかってくれているよ。だから、仲良くしてくれるんだと思うよ。アレク、自信を持つんだ」
「でも、友達なんてずっといなかったから……。レナードだけだったし。ぼくにやさしくしてくれたのは」
 しょんぼりと俯くと、レナードがアレクの頬を温かく両手で包みこむ。
 そっと顔を上げさせられ、アレクはレナードを見つめた。アレクと違い、落ち着いたブラウンの髪は滑らかな艶を見せている。パサパサの赤毛とは大違いだ。
 レナードもグレンフィールド校のウォートン寮を卒業している。今の総代のアルフレッド・フィッツウォルターと同じく、レナードも第六学年の一年目で総代を務めていた。二年目には学校総代生にも選ばれている。
 なにをやってもうまくいかないアレクとは正反対だ。
 可愛くてしょうがないというふうに、レナードはアレクの頬を撫で、微笑んだ。
「アレクはわたしの可愛い弟だろう? 生まれたばかりのアレクは小さくて、泣いてばかりだった。だが、不思議とわたしが抱き上げると泣きやんで、セント・オールズリーの伯父様も伯母様も苦笑していらしたな。まるで、わたしがアレクの親みたいだと」
「ぼく、そんなに泣いてばかりだったの?」
「そうだよ。ナニーが世話するのも嫌がって、でも、わたしが世話をすると笑うんだ。両親を亡くしたばかりだったわたしには、小さなアレクが一生懸命縋りついてくるのが愛しくて、寂しさも薄らんだ。だから、幾つになっても、おまえはわたしの可愛い可愛い弟なんだよ、アレク」
 そう言って、レナードがまた大事そうに、アレクを抱きしめる。抱きしめて、背中を撫でながら、レナードはアレクに囁いた。 「大丈夫だよ。おまえはいい子だから、ミズキ君も他の子たちも、おまえのよさがちゃんとわかって、おまえと友達になったんだ。よかったな、アレク。いっぺんにたくさん友達ができて。本当に、よかった」
「そう思う、レナード? ミズキもウィルもエリクも、本当にぼくと友達になってくれたと思う?」
「思うとも。おまえほど可愛い子はいないのだから、当然だよ」
 心を慰めてくれる囁きに、アレクはうっとりと目を閉じた。本当は両親にも友達ができたことを話して、よかったと言ってもらいたかった。
 でも、もういい。レナードがこうしてわかってくれるのなら、それだけでもう十分だった。
 レナードの胸に頬を押し当てて、アレクは幸せそうに目を閉じた。
 だから、アレクは気づかなかったのだ。よかったと囁くレナードの目が、一瞬冷たく光ったことを。
 抱きしめる腕が、わずかに強くなったことを。
 なにも気づかぬまま、アレクは大好きな従兄弟に甘えて、両親と兄につけられた傷を癒すのだった。


続く…
 
 第二話   第三話   第四話   第五話   第六話  
 
プライバシーポリシー |  ご意見・ご要望 |  広告掲載について |  このサイトについて |  通販方法 |  運営会社 | 
Copyright(c) 2005 Taiyohtosho Company. All rights reserved.