真夏の暑い日に磯貝尚吾は故郷の地を踏んだ。
生まれ育った鬼沢村を出て東京で働き始めてから、初めての帰省だ。あいかわらずここには何もない。満天の星に、うるさいほど騒ぎ立てている虫の音。東京ほど湿度が高くないのは、土が多いからか。空港で借りたレンタカーを実家の庭に停め、尚吾は玄関の引き戸を開けた。この辺りの田舎では鍵を閉めないのが当たり前で、都会の暮らしに慣れた尚吾からすれば物騒に思える。
「ただいま」
 奥に向かって声をかけ、靴を脱いで勝手に上がりこむ。戻ると連絡はしてあったが、八時の予定だったのに二時間も過ぎている。母の声が返ってきたので居間に向かうと、ちょうど食事の仕度をしていたらしく振り向きざまに大きな皿を持ち上げた。
「お帰りなさい、遅かったわねぇ。誠が待ちくたびれて寝ちゃったわ」
 母の声につられて、窓際に置かれたソファに六つ下の弟の誠が横たわって寝息を立てていた。無邪気な寝顔が目に飛び込み、知らずに鼓動が速まる。平然としていようと思っていたのに、二年ぶりに見る誠のあどけない顔に意識がすべて持っていかれた。
 暑さのせいか、誠はタンクトップと短パンしか身にまとっていない。小麦色に焼けた細い足が、短パンからすらりと伸びている。触れたくなるようなすべらかな肌に自然と目が釘付けになった。最後に鬼沢村を出たとき、誠はまだ小学生だった。今はもう中学二年生になって、顔もだいぶ大人びた。会わない間の二年で男くさく育っていればと願っていたが、尚吾の期待を裏切って誠は中性的な顔立ちのまま大きくなった。柔らかそうな唇を目にすると、未だに自分がこの存在に囚われているのを思い知らされる。
「尚吾が久しぶりに戻ってくるからって、楽しみにしてたんだけどね。今日は川に泳ぎに行ってたから、疲れちゃったみたい」
 テーブルに尚吾のための食事を用意しながら、母が笑う。尚吾は無理に誠から視線を逸らし、食卓についた。高校を卒業したあと、東京で働き始めて二年。今日までこの村には一度も足を向けなかった。誠に会うのが怖かったからだ。鬼沢村を出るまで秘めた想いを抱いていた分、ふつうの兄として接する自信を取り戻すのに時間が必要だった。けれど現実には、寝顔を見ただけで尚吾の心は簡単に血を分けた弟に引き戻された。
 滑稽だ、と尚吾は頭の隅で己を嘲った。
「ちゃんとご飯食べてるの? 東京での暮らしはどうなの?」
 母の手料理を食べながら、質問攻めにあい、ぽつぽつと答えを返した。喋りながらも頭の中は眠っている誠でいっぱいで、あの剥き出しのなめらかな足に触れたいと考えていた。
「そういや、俺…今度映画に出るんだ」
 上の空で報告すると、母が冷えた麦茶のお代わりをテーブルにおいて笑った。
「へぇー。エキストラとかそういうの?」
「……まぁ、そんなとこ」
 本当はオーディションに受かって映画の主役に抜擢されたのだが、いちいち説明するのが面倒でそう答えた。最近ではテレビや雑誌に記事が出ることも珍しくなくなっていたが、鬼沢村ではまだ知られていないらしい。どうせ撮影はもう終わったし、そのうち作品が公開されたときにでも報告すればいいだろう。
「ごちそうさま。……誠、このままじゃ風邪ひくから離れに連れて行こうか?」
 食べ終えた食器を片付け、母に変に思われないように務めて明るい声で告げた。父はまだ仕事で戻っていない。父がいたら自分の邪な想いが透けて伝わりそうで言えなかったろう。
「あらそう? そうね、そうしてあげて」
 母は特に不審に思った様子もなく、テーブルの皿を片付けている。尚吾は後ろめたい気持ちを押し隠し、眠っている誠の傍に近づいた。誠はぐっすり眠っていて、尚吾と母が会話している間もまったく目を覚まさなかった。
 誠を起こさないようにそっと背中と膝裏に手を入れた。横抱きに抱きかかえ、ゆっくりと居間を出た。誠の身体は中学二年生とは思えないほど軽く、小さかった。誠の素足に触れ、その身体を公然と抱きしめる。誠の髪の匂いをかぐと、お日様の匂いがして胸が高鳴った。
 ずっと触れていたくて、廊下をことさらゆっくりと進んだ。尚吾が家を出たあと、かつて尚吾が使っていた部屋を誠が使っているのは知っていた。なつかしい間取りを辿り、離れにある部屋に入る。離しがたかったがいつまでも抱いているわけにもいかず、尚吾はそっとベッドに誠の身体を下ろした。
「ん…」
 シーツに横たえると誠がかすかに鼻を鳴らす。そのまま目覚めるかと思ったが、熟睡しているらしく再び深い眠りに入る。尚吾は息を詰め、誠の頬に指を滑らせた。よくないと分かっていながら手が止められず、つるつるの誠の頬を撫でた。誠は女の子みたいに産毛しか生えていなくて、触っていると変な気分になって動揺した。
(馬鹿、やめろ―――)
 内心では引き止める声が強いのに、尚吾は耐え切れなくなって誠の太ももに触れた。誠が目覚めないか確認しながら、そっと付け根に向かって手のひらを這わせる。ひどく興奮して自分の息遣いで誠が目覚めるのではないかと怯えた。
「……っ」
 短パンの裾から指を伸ばし、誠の身体に触れようとした。だがすんでのところで手を引き抜き、顔を覆って己を罵倒した。実の弟に不埒な真似をしかける自分に反吐が出た。誠に気づかれたら変態だとののしられるような行為だ。何年経っても、自分が実の弟に欲情している事実から逃れられない。どれほどの女を抱いても、誠を見ると汚い欲望が頭をもたげてくる。
(俺は最低だ―――)
 顔を覆っていた手を離し、尚吾はよろめくように立ち上がった。誠は何も知らない顔ですやすやと寝息を立てている。その身体にタオルケットをかけ、尚吾はしばらく誠の顔を見下ろしていた。誠をこの村から引き離すために、東京で金を稼ごうと決意して、俳優という道を選んだ。まだ望んだ形にはなっていないが、いずれ東京で誠と暮らしたいと思っている。そのためにはこんな淫らな欲望は封印しなければならない。
(キスしたい。誠の小さな唇を吸って、舌で探ってみたい)
 駄目だと思う傍から、今だけでも、という下卑た考えが浮かんできた。尚吾は息を潜め、誠の頭の傍に手をおいた。ぎしりとベッドが鳴り、尚吾は胸を昂らせながら誠に顔を近づけた。
 薄く開いている誠の唇に、わずかに触れるだけのキスをした。
 触れた瞬間、怖くなって誠から身を離した。誠は起きる気配もなく、夢の中にいる。
 自分がこんなキスをするのは誠だけだ。子どものようなキスともいえないキス。けれど、どんな女とするよりも尚吾の身体を熱くする。
 逃げるように部屋の電気を消し、離れから立ち去った。
 夏の暑さのせいだけではない熱が、身体を包んでいた。
 それは尚吾の心を焦がすようにいつまでもまとわりついて消えなかった。